コラム COLUMN

第14回 ヤマブキ 万葉呼名:やまぶき

山振(やまぶき)の たち儀(よそ)ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく

高市皇子

ヤマブキ

―やまぶきの花が咲いている山の清水を汲みに行こうと思っても道がわからないのです―

ヤマブキはバラ科の落葉低木で、4~5月ころに開花し、一重の花だけが実をつけ、花や茎葉には薬効があるといいます。学内のそこかしこに観られるのは八重咲きですが、本来の野生種は一重の花です。

この歌は十市皇女(とおちのひめみこ)に捧げられた挽歌です。彼女は天武天皇(その頃は大海人皇子と呼ばれていた)と額田王との皇女で、大友皇子(おおとものみこ、父は天智天皇)の妃でした。大友は天智天皇の崩御後、勃発した壬申の乱で善戦空しく敗退し自害してしまいます。その後、十市が30代の若さで謎の急死(自殺説もあり)をとげているのですが、このとき高市皇子(たけちのみこ)が詠んだ歌が3首あり、その1つが「やまぶきの・・・」です。

さて、詠み人の高市皇子は天武天皇の第1皇子ですが、母親(胸形君徳善の女、尼子娘)の身分が低かったため、冠位四十八階制定の際には、草壁(くさかべ)皇子、大津(おおつ)皇子に次いで第3の地位に甘んじています。その悶々とした(?)心の穴を埋めたのが、6歳年長の異母姉にあたる十市皇女だったのではないかと思うのです。十市は幸薄い女性でした。壬申の乱で夫と敵対した高市は、十市にとっては敵(かたき)ともいえる存在でしたが、このように美しい挽歌を捧げているのです。やまぶきとは十市のことで、逢いに行こうと思っても黄泉の国までは道がわからない― 胸が高鳴りますネ。

ところで、面白いことに、大友皇子はわが千葉県の君津に逃げ延びたという説があるのです。このときいっしょだったのが、蘇我赤兄(そがのあかえ、有間皇子の裏切り者)や蘇我大飯(おほい)で、ひよっとしたら、JR京葉線のターミナル蘇我駅は、君津からもほど近いですから、町の命名は蘇我氏からきたのではないでしょうか。これは偶然の一致でしょうか。まぁ、このページは高市皇子が主役ですから、この説はこれでおしまい(大友皇子はまたの機会に)。(ま)