コラム COLUMN

第4回 ヤマモミジ 万葉呼名:もみち

経(たて)もなく 緯(ぬき)も定めず 娘子(おとめ)らが 織る黄葉(もみち)に 霜な降りそね

大津皇子

モミジ 万葉呼名:もみち

美しいもみじを織物に見立て、「どうか霜が降りませんように」と大津皇子(おおつのみこ)のやさしが滲み出ています。

大津は今風にいえばとびきりのイケメンです。 現存する日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』によると、「幼年にして学を好み、博覧(はくらん)にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」―小さいころから才学があり、物事をよく知っていたし、大人になってからは大柄で文武に秀で自由闊達、しかも人望に厚く奔放な性格なのだそうです。天武帝(大津のお父さん)の次期天皇と期待されたホープですから、オバさんがみても(もちろん誰がみても)まさに理想の士(おのこ)だったのですが・・・・・・。

さて、大津が不運だったことは、まず、天武帝の后であったお母さん(大田皇女-父は天智天皇)が幼少時に亡くなったことです。有力な後ろ盾もなく政治の中心に踊り出ることはかなり難しいことなのです。代わりに皇后になったのがお母さんの妹であり、叔母さんにあたる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)。天武帝とこの叔母さんの間にはライバル草壁(くさかべ・温和でゴクゴク普通の人)皇子がいます。2つ目の不運は、ふたりのお父さんである天武帝は器量からみて、次期天皇は大津と考えていたらしいのですが、遺言を残さなかったことです。そして3つ目、大津の恋人・石川郎女(いしかわのいらつめ)の存在。草壁もしきりに彼女に歌を贈り、アプローチしますが見向きもされません。母親としてはいまいましく思ったのでしょうネ。これがのちの陰謀説の引き金なっていったといいます(詳しくはあしびを参照)。そして、大津が処刑されたとき、妃・山辺皇女がわが子(粟津王)とともに殉死しました。その悲劇的な結末に多くの人が涙したと『日本書記』に記されています。

 ―ももづたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りな―
題詞には「大津皇子の死を被(たま)はりし時、磐余の池の堤にして涙を流して作らす御歌一首」(磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、死んでゆくのだろうか)自らの死を歌った挽歌。 (ま)