コラム COLUMN

第7回 ヤマツツジ 万葉呼名:つつじ

水(みな)伝ふ 磯の浦廻(み)の 石(いわ)つつじ 茂(も)く咲く道を またも見むかも

草壁皇子の舎人

ヤマツツジ 万葉呼名:つつじ

父・天武天皇、母・持統天皇をもつ皇太子・草壁皇子(くさかべのみこ)が、病死したのは27歳でした。反逆罪で大津皇子が処刑されてから2年半後のことです。

―今を盛りに咲いている岩つつじの花を再び見る時があるのだろうか―

舎人(とねり)とは、朝廷に属する身分の低い官人で、平たく言いますとお世話係ですネ(女性は采女(うねめ)と呼ばれていた)。草壁は日嗣(ひつぎ)の皇子(皇太子)ですから、たくさんの舎人が朝廷から遣わされて身辺の雑用を引き受けていたようです。この舎人たちは草壁の家臣ではありませんが、草壁が皇位につけば、出世の機会もあろうかと待ち望んでいたんでしょうネ。彼らは草壁の死によって、23首の挽歌を詠みます(柿本人麻呂が詠んだとの説もあり)。これは異例中の異例のことでした。それだけ皇位間近な皇太子の死は大事件だったのです。我が子を帝にと望んでいた持統天皇の落胆振りが目に浮かび、大きなため息も聴こえてきそうです。

ここで、『万葉集』にある草壁皇子が詠んだ唯一の歌をご紹介します。
―大名児(おほなこ)を 彼方(をちかた)野辺(のへ)に 刈る草の 束(つか)の間も我れ 忘れめや―
草壁は大名児のことを束の間も忘れたことがないと女々しく歌っています。面白いですねぇ、大名児とは大津皇子の恋人の石川郎女(いしかわのいらつめ)のことなのです(詳しくはもみちを参照)。郎女は恋人の皇子もフッた皇子も20代で失ってしまいました。しかし、額田王(ぬかだのおうきみ)や大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)とともに「恋多き女性」と言われていたようですから、案外立ち直りも早かったかもしれませんネ。

さて、『万葉集』の歌の種類について整理してみましょう。
(1)雑歌(ぞうか)・・・宮廷の儀式・行幸・宴などの歌が中心
(2)相聞歌(そうもんか)・・・お互いにやり取りする歌で、恋の歌が多い
(3)挽歌(ばんか)・・・人の死に関する歌
おおむね、相聞歌、挽歌以外は雑歌に区分されます。

学内では、オオムラサやサツキツツジ、ドウダンツツジ、ミツバツツジなどがサクラの開花と同じころから咲き始めます。華やかで一番心弾む季節です。(ま)