コラム COLUMN

第16回 万葉の婚姻事情

朝寝(い)髪 われは梳(けづ)らじ 愛(うつく)しき 君が手(た)枕 触(ふ)れてしものを

作者未詳

池の鴨たち-番と男友だち?

―朝の寝乱れ髪を櫛でとくまい。いとしいあの方の枕とした手が触れたものを―

「ジューンブライド」といって、6月の花嫁は幸せになると言われて久しいですが、このワタクシも云十年前の6月に結婚しました(あっ!カンケイないですね)。
さて、万葉時代の婚姻スタイルは夫婦別居の「通い婚」が一般的でした。それも妻のもとに夫が通う「妻訪い婚(つまどいこん)・よばい婚」で、夫は妻のもとへ夜訪れて早朝帰ります。生まれた子どもはその母方で育てられますから、親というと母親を指すことが多いのです。いずれ、ある期間を経て、同居に移る場合があります。

当時は一夫多妻制の名残もあってか、正妻がいて、妾(しょう)がいました。でもこの妾は今日でいう妾(めかけ)のことではなく、多数いる妻のひとりです。多数では夜毎同じ女性のもとに通ってくるとは思えません。『万葉集』には、逢えない「待つ身」のつらさを強いられていた嘆きを詠む歌が多く残されています。しかし、無名だけれど元気な女性もいました。

―紅(くれなゐ)の 裾引く道を 中に置きて われか通はむ 君か来(き)まさむ―
わたしが通っていきましょうか。それともあなたが来てくれますか。恋は女性を強くします。

心配性の女性もいました。
―梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも― 石川郎女
梓弓を引くように本気で私を誘ってくれるのなら、素直についていきたい。でも、いつかあなたは心変わりしないかと、それだけが心配でなのです。

男はどんな時でも本気だと言うけれど、いつの世もその心の見えることはない。それは女も同じだけれど、ただ待つだけの女にはいつまでも不安だけが胸の奥にしこりのように残っている。そして時に心は移ろい、変わっていく。なぜ?と聞かれて、答えようもないのだけれど・・・・・。

ここで、大伴家持を例にとってみましょう。三日月の歌を贈ってGETしたのが、いとこの大伴坂上大嬢。
―ふりさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引(まよびき) 思ほゆるかも― 大伴 家持 (『万葉集』にある474首の最初の歌)
ふり仰いで三日月を見ると、ただ一目見た、あの人の三日月型に引いた眉が忘れられない・・・この三日月眉が大嬢のことです。天平5年、16歳の時の歌ですが、まぁなんと早熟のようで。歌の手ほどきをしてもらったのが、大嬢のおかあさんで叔母さんにあたる大伴坂上郎女(「はねず」を参照)でしたからしょうがないか~。しかし、家持が妾を迎えたため、この恋は中段してしまいます。

三日月を詠んでから6年後、家持が愛妾を亡くした時の挽歌です。
―佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思い出で 泣かぬ日はなし―
―昔こそ 外にも見しか 吾妹子が 奥城と思へば 愛しき佐保山―

ナデシコ
この2首には、「佐保山(平城山丘陵の一角で桜の名所)にかかる霞を見るたびに妻を思って泣かない日はない。吾が妻が眠る山と思えば、佐保山もいとおしく思われる」と。さらに、
―秋さらば 見つつ思(しの)へど 妹(いも)が植(う)ゑし 屋前(やど)の石竹(なでしこ) 咲きにけるかも―
家持が最も愛した花はナデシコでした。「撫(な)でし子」には撫でていつくしんだ娘(こ)という意味合いがあります。彼女が植えたナデシコが、秋になって咲いたのを見てこころうたれ、悲しみをあらたにしたのでしょう。この妾との間には子もなしていたといいますから余計になんでしょうね。  

さて、正妻の大嬢(おほおとめ)は当代きってのプレーボーイをどのようにみていたのでしょうか。
―わが名はも 千名(ちな)の五百名(いほな)に 立ちぬとも 君が名立たば 惜(を)しみこそ泣け―
わたしの恋の評判はいくら立ってもいいけれど、あなたの浮き名が立ちますと、悔しくて涙がでます。
恋いこがれながら、むくわれぬ愛に泣く人、愛されながらはかなく逝った人、愛しい妻に追慕の涙を流す人。爛漫と咲き誇る天平文化の中でも、権力闘争があったり、愛憎があったり、人間模様は複雑だ。 (ま)