コラム COLUMN

第13回 イタジイ 万葉呼名:しひ(椎)

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

有間皇子

マルバハギ
―家にいたら器(笥-け)に盛るご飯を、旅にあるので椎の葉に盛るのです―

そんな単純な話しではないのです。このときすでに有間皇子(ありまのみこ)は自らの処遇を知っていたと思われます。題詞の「自ら傷み」がそれを物語っているのではないでしょうか。
この歌は、題詞「有間皇子自ら傷み松が枝を結ぶ歌二首」の2番目の歌で、
一首目が 「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」です。
父の孝徳天皇が難波の宮に遷都してから八年後、大化改新を推進した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・のちの天智天皇)が都を飛鳥に戻すことを提案しますが、孝徳は聞き入れず、ならばと、中大兄は妹である孝徳の皇后-間人皇女(はしひとのひめみこ)ともども飛鳥に還ってしまいます。失意のうちに一年後、妃の小足媛(おたらしひめ)とその間に生まれた有間を残して崩御(ほうぎょ)されました。
ここからがいよいよクライマックスです。 中大兄は皇太子で、六歳とはいえ天皇の嫡男(ひとり息子)・有間との間には、皇位継承が浮上。「火種は小さいうちに消せ」とばかりに、有間は蘇我赤兄(そがのあかえ、蘇我馬子の孫)に謀反をそのかされ、そそのかした本人・赤兄の通報により囚われの身となりました。その護送の途中でこれらの二首を詠みます。「もし幸いに無事であったら、結んだ松の枝を見よう」
蘇我赤兄の黒幕・中大兄皇子の「なぜ?」の問いに、有間皇子は「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない) とだけ答えたそうです。享年19歳。
皇位継承がからんだ悲劇は、約30年の後の壬申の乱で大津皇子(おおつのみこ)が処刑されています。(ま)

付録:
草枕は「旅」の枕詞ですが、万葉の時代は今とは違ってホテルや旅館などはなく、たいてい野宿で、文字どおり草を束にして枕にしたとそうです。枕を集めてみました。
(1)草枕・・・旅で眠るとき
(2)手枕(たまくら)・・・男女が共寝をするとき
(3)石枕(いわまくら)・・・永遠に眠りにつくとき