西の小径の草花・句 FLOWER & HAIKU

西の小径

アセビPieris japonica subsp. japonica

万葉呼名/あしび 分類/ツツジ科常緑低木 開花時期/2月中旬~

「磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに」大伯皇女(巻二・一六六)

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葉は有毒で牛馬が中毒をおこすことから「馬酔木」と書く。歌は題詞に「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に大伯皇女の哀しび傷みて作らす歌二首」とある。天武天皇崩御の一ヶ月後の686年10月3日、皇位継承の有力候補だった大津皇子は謀反の罪で処刑された(享年24)。処刑の翌年、許されて二上山に葬られたといわれる。大津の処刑後まもなく、姉の大伯は伊勢斎宮の任を解かれ帰京した。あしびは大津の好きな花だったのだろうか。手折ることも出来ず花を前に立ちすくむ皇女の姿が浮かぶ。


ヤマツツジRhododendron kaempferi

万葉呼名/つつじ 分類/ツツジ科反常緑低木 開花時期/4~5月

「水伝ふ 磯の浦廻の岩つつじ 茂く咲く道を またも見むかも」草壁皇子の舎人(巻二・一八五)

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「岩つつじ」は石のほとりに咲いているつつじ。「水伝ふ磯」は草壁皇子の宮殿にあった池のことだろう。時の東宮・草壁が28歳の若さで亡くなったのは持統3年(689)4月13日で太陽暦の5月8日にあたる。殯宮儀礼は一年間行われたが、この歌は初期のもので「岩つつじ茂く咲く道」は実景であっただろう。突然に主を失った舎人の悲しみが美しい宮を去りがたい気持ちとなってあらわれている。歌の題詞には「皇子尊の宮の舎人等が慟傷して作る歌二十三首」とある。東宮職員令によると東宮の舎人は600人と規定されている。


ハマオモトCrinum asiaticum

万葉呼名/はまゆふ 分類/ヒガンバナ科多年草 開花時期/7月~

「み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも」柿本人麻呂(巻四・四九六)

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ハマユウ (出典:Wikipedia)              アフリカハマユウ

夏、白色六弁の花を開き、百合のような芳香をはなつ。木綿で作った花のようであるから浜木綿と名付けられたらしい。『万葉集』に一例のみ。暖かい海辺に自生する浜木綿は宮廷人になじみの植物ではなかっただろう。浜木綿を和歌の世界に定着させたのは、柿本人麻呂のこの歌である。光沢のある浜木綿の葉が幾重にも重なってつく様を「百重なす」とうたい、想いを募らせる譬喩とした。景と情が美しく結ばれていると評価が高い。人麻呂歌の浜木綿のイメージは後世に引き継がれ、平安以降の用例においても「三熊野のはまゆふ」の形を取り、募る恋の想いを表現するのに用いられている。

追記:
「万葉の杜」に咲いているのは、アフリカハマユウといい、ユリ科 ハマオモト属 学名 Crinumbulbispemum である。


ヤマハギLespedeza bicolor

万葉呼名/はぎ 分類/マメ科落葉低木 開花時期/8~10月

「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」笠金村(巻二・二三一)

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その名は「生え芽(はえき)」に由来し「芽」または「芽子」と書かかれる。萩は、『万葉集』に約140首と最も多くうたわれている植物である。「秋萩」は歌語として古くから定着していた。歌に多く登場する高円・阿太・栗栖などの野は萩の名所であったのだろう。また、鹿や雁と共にうたわれることが多い(他、ひぐらし、ほととぎす、うずら)。萩に結ぶ露も歌の主要な題材となっている。
歌は志貴皇子(天智天皇の皇子、光仁天皇の父)への挽歌。作者は聖武朝に活躍した専門歌人・笠金村である。長歌一首、短歌二首のこの挽歌では、長歌で皇子の葬送を知らずに高円(皇子の墓は高円山の東南麓にある)を通りかかった「吾」が事情を知り、見るべき人を喪った萩の盛りを思う内容となっている。皇子の死は8月、この歌は9月の作であり、萩の盛りであったのだろう。


ツユクサCommeline communis

万葉呼名/つきくさ 分類/ツユクサ科一年草 開花時期/6月~

「月草の うつろひ易く 思へかも 我が思ふ人の 言も告げ来ぬ」坂上大嬢(巻四・五八三)

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花は青色の染料として摺染めにする。その染色のあせやすいことから「移ろふ」「消ゆ」などの序詞として用いられる。
歌は題詞に「大伴坂上家の大嬢が大伴宿祢家持に報へ贈る歌四首」とあるうちの一首。作者・坂上大嬢は、坂上郎女の娘で大伴家持の従姉妹であり正妻。歌にある「月草のうつろひ易く思へかも」は、「あなた(家持)が移ろい易い気持ちで思っているからでしょうか」の意か、「わたしを移ろい易い女だと思っているからでしょうか」の意か意見の分かれるところ。


ウメPrunus mume

万葉呼名/うめ 分類/バラ科落葉小高木 開花時期/2~3月下旬

「我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」大伴旅人(巻五・八二二)

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中国原産で奈良朝ごろに舶来した。『万葉集』には119首の梅の歌があり、すべて白梅をうたったものとなっている。梅の歌の制作はほぼ万葉第三期以降のことになる。(※万葉第三期=平城遷都710年から旅人・憶良・赤人・虫麻呂・金村ら第三期の主な歌人の活動が終わる736年ごろまで。)
天平2年(730)正月、太宰師・大伴旅人の官邸で開かれた梅花の宴の歌、三二首が有名である。この歌もその時の一首。雪の見立ては漢詩世界からの着想といわれる。高く広い天空をも一首の中に取り込んでしまう旅人の発想は、後の紀貫之に通じるところがある。 夜の梅の、その香りへの関心は『万葉集』にはまだなく、『古今集』以後のこととなる。


アジサイHydrangea

万葉呼名/あじさゐ 分類/ユキノシタ科落葉低木 開花時期/6月~7月

「あじさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ」橘諸兄(巻二十・四四四八)

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当時のあじさゐは、周縁部にだけ花弁ある花を付けるガクアジサイかヤマアジサイだったらしい。
『万葉集』にあじさゐの歌は二首。この橘諸兄(=葛城王。皇族の籍を離れ橘宿祢の姓を賜った。当時の左大臣)の歌は、題詞に「同じ月十一日に左大臣橘卿、右大弁丹比国人真人の宅に宴する歌三首」とあるうちの三首目。
宴のあった5月11日は太陽暦の6月28日にあたり、あじさゐの最盛期であった。作者・橘諸兄は庭のあじさゐを用い、八重に咲く花の様を八代にも永く栄えることの比喩として、宴席の主人を寿いでいる。


ネムノキAlbizzia julibrissin

万葉呼名/ねぶ 分類/マメ科落葉高木 開花時期/6~7月

「昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ」紀女郎(巻八・一四六一)

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葉は長さ1センチほどの小葉からなる複葉で長さは30センチ。日が照ると開き、夜間は左右から上方に閉じ合って垂れ下がる。その様子が眠ったようなのでこの名がある。「合歓(ねぶ)」の字は、ねぶの性質を男女の交合にたとえた漢籍に従ったもの。平安以降になると、ねぶは歌語として登場しなくなる。
紀女郎は、紀鹿人の娘、名は小鹿。正妻・坂上大嬢をのぞく家持をとりまく女性たちの中で唯一出自経歴が明らかであり、また家持から贈られた歌の多さでも突出している。紀女郎は家持の友人(市原王)の父(安貴王)の妻であり、女郎と家持の間で交わされた歌には遊び心がある。この歌でも紀女郎は自分を「君(主人)」といい、家持を「戯奴(わけ・未熟者)」と呼び戯れている。


ヤマブキJapanese rose

万葉呼名/やまぶき 分類/バラ科落葉低木 開花時期/4月~

「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」高市皇子(巻二・一五八)

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山野に自生するが庭園にも植えられた。晩春、枝先に黄色の花をつける。八重咲きのものが多く、実のならぬ木として有名。枕詞として同音の繰り返しから止ムに、また花の色の美しいことからニホフにかかる。
歌は題詞に「十市皇女の薨じし時に高市皇子尊の作らす歌三首」とあるうちの一首。十市皇女は大海人皇子(天武)と額田王の娘で、皇女の夫は壬申の乱で敗死した大友皇子。皇女は天武7年(678)4月7日に急死した。享年31(推定)。作者は異母兄の高市皇子。天武の最も年長の皇子である。突然の皇女の死は、壬申の乱への抗議の自殺、あるいは高市皇子の求愛により追い込まれた末の自殺だったとも言われる。